65.高崎新風土記「私の心の風景」

「山のさびしい湖」のこと

吉永哲郎

 昭和十五年は「日本書紀」に記載されている神武天皇即位から数えて二千六百年にあたるとされ、関連の式典や祝賀会が各地で行われました。それらが終わってすぐ「祝いは終わった さぁ働こう」とか「ぜいたくは敵だ」という国民的標語が叫ばれ、また国防色(カーキ色)の国民服着用が奨励され、さらに外来語を敵性語といって、カタカナ語廃止(ドレミファをはにほへとへ変更など)の気運が高まり、以前よりまして戦時生活になった時でした。こうした時代背景のなかで、佐藤惣之助作詞「湖畔の宿」が服部良一作曲、高峰三枝子によって歌われ、大ヒットしたのです。
 その後、湖畔のモデルはどこかとりざたされていましたが、惣之助が亡くなる直前の昭和十七年に「湖畔亭」の仲居さん宛の手紙に「山のさびしい湖」は榛名湖であることが書かれていました。この手紙が発見されたのが昭和六十三年(一九八八年)で、それを記念して翌年「湖畔の宿記念公園」が榛名湖畔につくられたのです。歌詞碑の前にたちますと「湖畔の宿」のメロディーが流れます。公園内には分部順二作「乙女の像」もあります。
 終戦記念日近くこの公園に佇みますと、惣之助が「悲しい心 胸の痛み」や「昨日の夢と 焚き捨てる古い手紙」の歌詞にどのような思いを籠めていたかを、いろいろ考えさせられます。惣之助はその他に「赤城の子守唄」「人生劇場」などを作詞しています。また萩原朔太郎の妹愛子を妻に迎えています。この縁で朔太郎の葬儀委員長を務めました。
 さて、あなたはひとりしずかに過ごせる空間をおもちですか。私は榛名湖畔です。

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