52.高崎新風土記「私の心の風景」

オッパレェたんぼ

吉永哲郎

 田植えが一段落した七月、郊外には青畳の田園風景がひろがります。都市化が進んだ現代では身近に見られませんが、以前ですと、高崎駅東口などを出て少し歩きますと、稲田の風景はごく当たり前のことでした。
 流通機構の発達によって、新潟・秋田のおいしいお米をたやすく口にすることができるようになりましたが、高崎も、榛名山系の豊富な水と広がる平坦地でよいお米があります。日高遺跡・御布呂遺跡など古くからこの地に稲作が行われていたことが理解されていますが、日高町周辺で収穫される日高米は、今の人の口にはのぼりませんが、高崎のおいしいお米として名が通っていました。
 さて、「オッパレェたんぼ」とは、稲田確保に苦しんだ中島町に伝わる呼称です。中島町は利根川が極端に蛇行するところで、大水で流れは常に変化し、そのたびに田は冠水、流されました。このことを「オッパレェたんぼ」と称したといわれます。特に、幕末期につくられた古い土手と、戦後間もなくつくられた土手との間の田をさしていうようですが、中島町には、利根川沿いに古い堤が点在しています。稲田を確保するために、人々が自然と闘ってきた歴史を、思わずにはいられません。
 「生きかはり死にかはりして打つ田かな」
 という村上鬼城の句があります。当たり前のように広がる初夏の田園風景に、住む人々の変わりなく続く、稲田への思い入れの姿が、目に浮かびます。年々、田園風景は変わり懐旧的になりがちですが、稲田と自然と共存しようと努力してきた人間の営みを、青畳風景から読み取りたいものです

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