銀幕から生まれた昭和の映画女優10

天性の美貌と理智。意思をもつ女優 -岡田 茉莉子-

志尾 睦子

 私が初めて岡田茉莉子という女優を認識したのは、80年代の2時間ドラマだった。理智的で風格ある謎めいた美女、という印象が強い。その登場でドラマの空気がガラリと変わってしまうのを、子供ながらに感じていた。ドラマの鍵を握る女優・岡田茉莉子の登場に「待ってました!」という気分になったものだ。のちに数々の出演映画を観て、ドラマで感じたあの特別感はここが原点なのだと思い知ったのはいうまでもない。
 岡田茉莉子の映画界入りは18歳。1歳の頃に父親を亡くしている岡田茉莉子は、高校生になるまでその父が、無声映画時代を代表する俳優・岡田時彦であることを知らなかったそうだ。母親は、芸能界の道に進まなかったものの宝塚少女歌劇団の出身者であり、母の妹は宝塚スターとして活躍する御幸市子、その夫は東宝映画計画部プロデューサーの山本紫朗という家系に育っている。叔父から第3期東宝ニューフェイスを受けるよう勧められたのが芸能界入りの直接的きっかけのようだが、そのくっきりとした目鼻立ちと華やかな雰囲気で、かなり目を引く存在であったという。
 入所からひと月もたたないうちに、『舞姫』(1951/成瀬巳喜男監督)の準主役でデビューを果たす。あどけない少女ながらスクリーンに映えるその存在感はすぐさまファンを虜にし、以後6年間東宝の看板女優として活躍した。
 人気絶頂時に東宝を離れた岡田茉莉子はフリーの時期を経て、1957年に松竹と専属契約を結ぶ。なぜ東宝を出たのか、それは映画スターとしての自分を意識し、自らの手で道を切り開こうとする現れだったようだ。20代半ばにして自分自身を演出することに目覚めた岡田茉莉子は、その後、野心的に女優を超えた歩みを始め、映画界で異彩を放つ存在となっていく。
 1962年には出演作品100本目を記念し『秋津温泉』を自らプロデュース。当時若手だった吉田喜重監督を起用し、新しい才能を発掘した。企画はもちろん、衣装から映像のカラーバランスにまで岡田茉莉子の提案が細部にわたり盛り込まれたという。映画づくりにかける情熱は着実に成果を上げ、後世に残る名作となった。吉田喜重監督とはその後結婚し、1966年には吉田喜重と共に現代映画社を創立。以後、女優として、プロデューサーとして、今なお映画と向き合っている。
 映画にかける想いとその意思の強さは、2009年に上梓した『女優 岡田茉莉子』(文藝春秋)に詳しい。こちらも名著なので是非一読をお勧めしたい。

志尾 睦子(しお むつこ)
群馬県立女子大学在学中にボランティアスタッフとして高崎映画祭の活動に参加。群馬県内初のミニシアター「シネマテークたかさき」の総支配人を務めると同時に、日本を代表する映画祭である高崎映画祭総合プロデューサーとして活躍。

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